昨年、日本へ帰った時、久しぶりに大きな靴販売チェーン店を訪れた。なかなか気にいったものが見つからない。靴先がとがったものが大半を占めている。どうして日本人はこうワンパターンなのだろうか、と首をかしげた。さらに驚いたのは靴底と靴のかかとが一体化した靴がほとんどを占めていたことだ。つまり、かかとがすり減っても取り換えられない仕組みになっているのだ。店員に、かかとの取り換えられる靴はないかと聞いたが、そういう靴はうちの店には置いていない、と怪訝そうに言う。最近の靴はほとんどが、かかとの取り換えができない一体型だそうだ。世界が持続可能な消費と生産を人類の共通目標の一つに挙げている時代に逆行しているのではないか、と相手構わず口から出てしまい、後で自分ながらこんなことを店員に言っても仕方ないのにと後悔し、苦笑いしてしまった。
結局、靴を買うのをあきらめ、帰路の途中で見つけた靴修理の店で、底とかかとが一体の履き古した私の靴を見せ、かかとの修理ができるかどうか、聞いてみた。「お客さん、新しい靴を買った方が安いですよ」。半ば予期していた返事だった。
後日、バンコクに戻った折に、路上で靴修理をしているおじさんに修理を依頼した。かかとの減った部分をうまい具合にナイフで平らに削り、それに既成のかかとを張り付けて1時間足らずで完ぺきに修理してくれた。料金は2足分で140バーツ(約420円)。
なんだ、やればできるじゃないか、と少し救われた気分になった。でも、よく考えれば、似たようなことが我々(われわれ)の身の回りでたくさん起きているような気がする。高度経済成長と大量消費時代に生まれ育ってきた我々の多くは、お金さえ出せば何でも手に入ると信じ、修理すれば使えることさえも忘れていることが多い。そして、近年の内需の拡大政策だ。経済の活性化は重要だが、持続可能な視点に立ったバランスのとれた発想が必要なのではないだろうか。生産(そして破棄)するのに多くの資源、労働力やエネルギーが使われていることや、それが欲しくても買えない貧しい人たちが存在することを忘れがちだ。限られた資源を有効に利用すること、物を大切にすること、持つ人は持たない人たちと分かち合うこと、そして政府、民間業者、消費者たちが一体となった理解と協力が必要なことなど、「持続可能な消費と生産」という人類に課せられた世界共通目標は、我々一人一人の日常の努力なしに始まらない。