東南アジアレポート-はじまりの場所へ

Photograph: Ippei Tsuruga

東南アジアレポートは、2007年11月にタイ・ラオス・カンボジアを一人旅した際の日記を連載したコラムです。当時香川大学3年生だった筆者は、ニュージーランド語学留学を経て、東南アジアへ足を運ぶこととなります。就職活動が始まる時期を目前に控え、開発援助のキャリアを模索すべきかどうか悩む日々が続きます。開発途上国を歩くことで自分と向き合うことができるのではないか。開発援助をキャリアとしたいか。あるいはボランティアで続けていきたいか。進むべき道を見定めるための旅へ出ることとなります。

この旅を経て筆者は、イギリスの大学院へ留学する決意をします。そしてその後、国際協力機構(JICA)、国際労働機関(ILO)へとキャリアを進めていくこととなります。キャリア選択に悩む大学生が、純粋な気持ちで開発途上国を歩く様子。スマートフォンも無く、紙の地図だけを頼りに四苦八苦する様子。開発途上国の人々の生活を肌で感じる様子。日本企業の進出が始まっていなかった当時の情景描写も併せてをお楽しみください。


北京国際空港と中国の印象

Issue 1 / 2007年11月9日 / 関連記事

旅立ちの朝、大阪の街は少し霞がかっていた。ニュージーランドから8ヶ月ぶりに戻ってきた日本を満喫する間もなく、2晩お世話になった民宿のおっちゃんにお礼を言い、近くの駅へ向かった。


セックスの街バンコク

Issue 2 / 2007年11月9日 / 関連記事

バンコクについて、「sexしかすることのない街。君が行って楽しいような所ではないよ。」と言った彼に、「バンコクは空港があるから行くだけの街。そこですることは何もないし、別に興味もそれ程ない。着いたらすぐ他の街へ行くよ。」と答えた。実際に、僕のバンコクに対するイメージが、彼の意見と全く同じになることはこの時はまだ知る由もなかった。


バンコク発ラオス行、列車の旅

Issue 3 / 2007年11月9日 / 関連記事

ようやくバンコクに到着したときには午前3時を回っていた。3、4時間のフライトの間に少しでも眠りたかったのだけれど、機内サービスのためにせわしなく動き回る乗務員はそれを許してくれなかった。


バンコクからコーンケンへ鉄道で行く

Issue 4 / 2007年11月10日 / 関連記事

列車の窓から外に目をやると、華やかに近代化の進んだ首都バンコクが負の側面を覗かせる。巨大ビル群の陰に立つ2階建ての簡素な掘っ立て小屋群はその象徴的光 景だった。隣の家との間は10cm。どこが入り口かもわからないくらい密集したぼろぼろの小屋に住む人々もこの街にはいる。


コーンケンのゲストハウスからノンカイへ鉄道の旅

Issue 5 / 2007年11月11日 / 関連記事

寝る前に開けておいた窓からは、耳障りな目覚ましの音が聞こえてくる。通りに面したこのゲストハウスでは、ニワトリや野鳥たちの声が朝を告げるのではなく、原付のエンジン音が朝を知らせてくれる。それでも朝7時30分まではしっかりと眠り、昨夜から9時間以上は寝ている。


タイとラオスの国境

Issue 6 / 2007年11月11日 / 関連記事

日も傾いてきた頃、僕はどこの国にもいなかった。昼食後に乗ったバスはタイとラオスの国境へ到着していた。全乗客は出国手続きを行うため一度下ろされた。タイの出国手続きを終えた後、ラオスの入管までは5メートルくらいある。だからその5メートルはどこの国にもいないこととなるのだ。このうまく表現できないワクワクが伝わるだろうか。


ラオスの首都ビエンチャン

Issue 7 / 2007年11月12日 / 関連記事

あと数年後にこの街は日本人で溢れかえるだろう。気温30度を軽く上回る炎天下の中、へとへとになりながら歩いた首都ビエンチャン。首都でありながらメコン川のほとりにひっそりと佇むこの小都市はヨーロッパからの観光客を魅了して久しい。


ビエンチャンでラオ航空を予約する

Issue 8 / 2007年11月12日 / 関連記事

目を瞑ったと思ったら、もう朝だ。体が疲れているせいなのか。それとも単に無神経なだけなのか。この日もよく眠れた。日本にいるとどんなに寝てもまだ寝たりないと思うことがよくある。しかし、この頃はやけにサッパリした朝を迎えることができている。


近代化の波に飲み込まれつつあるビエンチャン

Issue 9 / 2007年11月13日 / 関連記事

走り始めたTukTukの後部座席から見るビエンチャンはまた少し違う趣を見せていた。近代化の波に飲み込まれつつあるこの地域にも、お坊さんが歩いていたり、寺院があったりする。ピカピカの車に乗る人々がいる一方で、TukTukに子供を詰め込めるだけ詰め込んで市場へ買出しに行くお母さん達もいる。


ビエンチャンの市場

Issue 10 / 2007年11月14日 / 関連記事

少しいつもと違った気持ちで朝を迎えた。ある意味、就職活動の日なのだから無理も無い。生まれてこの方、職員訪問というものを一度もしたことがないため、何を どうしてよいのかさっぱりわからなかった。たいていはリクルートスーツに身を固め、右手には黒く四角いバッグを提げて行くのだろう。


ラオスで盗難

Issue 11 / 2007年11月15日 / 関連記事

相変わらず清々しい朝を迎え、ゲストハウスの玄関へ向かった。そこで目が飛び出た。口から心臓が飛び出る前に我が目を疑った。昨日確かにそこに置いておいたは ずの靴がない。ニュージーランドで2,000円で買った自慢のボロ靴がない。この旅で買い替えようと思っていた矢先の出来事である。


ビエンチャンのバス事情

Issue 12 / 2007年11月15日 / 関連記事

値切りに値切って買った真っ白な靴は、その白さ以上に眩しく見えた。軽やかなステップで、朝の賑やかな市場を颯爽(さっそう)と抜け、道路を小走りに横切っ た。バスターミナルは道路を挟んで市場の向かいにある。朝10時を回るこの時間帯になると、たくさんの人々がバスで市場にやってくる。


ビエンチャンからメコン川に沈む夕日を眺める

Issue 13 / 2007年11月15日 / 関連記事

東南アジア独特の夕暮れ。メコン川の向こう側にオレンジ色の太陽が沈んでいく。対岸に見えるタイの農村も少しずつ闇の中に消えていく。ラオスへ来て6日目の今日、ずっと霞がかっていた雲がやっと晴れた。東南アジアの写真集によく出てくる風景が今目の前にある。その荘厳さに圧倒されずにはいられない。


ラオスの安宿ジョーゲストハウスはほのぼの家族経営

Issue 14 / 2007年11月15日 / 関連記事

宿屋のおばちゃんがバイクのシートに腰掛けている。どこか遠くのほうを見ながら夜風にそっと吹かれている。ビエンチャンの中でもとりわけ外国人の多いこの通りは夜も人通りが絶えない。


ビエンチャンのトゥクトゥクと値段交渉

Issue 15 / 2007年11月16日 / 関連記事

この旅始まって以来のひどい頭痛。重い頭を2、3発叩いてからベッドから出た。どこへ行ってもいつもと変わらぬ気持ちで生活できるのが特技になりつつあるが、さすがに体は疲れているようだ。ただ、変な病気にかかったわけではないと確信していた。


ラオス国営航空でプノンペンを目指す-ワットタイ国際空港は2つある?

Issue 16 / 2007年11月16日 / 関連記事

最後の最後でどんでん返しが待っていた。値切り交渉の末に安運賃で空港へ辿り着くことができたまではよかった。しかし、そこに落とし穴が待っていたのである。 空港へ到着してまず確認しなければならなかったことは、「本当に予約した飛行機が飛んでいるか」だった。


ラオス国営航空の対応-パクセ経由プノンペン行きは波乱の幕開け

Issue 17 / 2007年11月16日 / 関連記事

搭乗2時間前になり、周囲が慌しくなってきた。どうやら搭乗手続きが始まったようだ。搭乗客が長蛇の列を作り、カウンターへ一直線に伸びている。僕は前から10人目くらいの位置につけた。5分、10分、15分。しかし、待てども待てども蛇の頭は見えてこない。いくら待ってもなかなか前に進まない。


バスでプノンペンからタケオへ-詐欺タクシー?

Issue 18 / 2007年11月17日 / 関連記事

プノンペンの喧騒は隣国ラオスの首都ビエンチャンとは全く比べ物にならない。都市全体が金儲けの渦の中に飲み込まれつつあるように感じる。2006年3月にここを訪れたとき以上に人々は慌しく走り回っていた。


タケオのバイタクとトラブル-田舎街の田園風景は素晴らしい

Issue 19 / 2007年11月17日 / 関連記事

昼下がりの田舎町は活気であふれていた。僕は人口わずか4万の小さな町のど真ん中に降ろされた。太陽の日差しが眩しい。しかし、それ以上に周囲の視線が四方八方から強烈に僕に注がれているのを感じた。観光客などほとんど来ないであろう。


タケオのゲストハウスにて-プノンペンの喧騒を忘れる瞬間

Issue 20 / 2007年11月17日 / 関連記事

タケオの湖が赤く染まり、西の空に夕日が沈んでいく。下校途中の学生や仕事帰りの大人たちが湖の畔を軽い足取りで戻っていく。ゲストハウスの2階テラスでゆったりと眺める景色は、時間を忘れさせてくれた。昨夜プノンペンで買ったパンをほお張る。ふとその時、一人のカンボジア人が僕の横に腰掛けた。左腕がない。


プノンペンにオリンピックスタジアムがなぜ?

Issue 21 / 2007年11月18日 / 関連記事

プノンペンは活気であふれている。毎日新しい店が街のどこかで産声を上げ、大きなビルがいつの間にか家の隣にできていたりもする。昨年、はじめて訪れたこの街で、「これが途上国っていうものか」と、率直に思ったのを覚えている。


開発途上国の発展とは何か?開発実務家のキャリアとは何か?

Issue 22 / 2007年11月19日 / 関連記事

ときどき考えることがある。誰かのため、とりわけ途上国の発展に貢献しようとして仕事している人の生活水準はどうしても低くなってしまって、時にはボランティ アなんて事もあったりする。他方で、日本や他の先進国で途上国の安い人件費を利用して、自国民が安くものを買えるようにしたりする人はたくさんのお金を 持っていたりする。


プノンペンのインターネットカフェで仕事-スラム地区取材

Issue 23 / 2007年11月20日 / 関連記事

今日はビールを飲まずに書いている。あまりにたくさん書きたいことがありすぎて、ビールなど飲んでいられない。飲んだら寝るな。それは無理である。だから今日は飲んでいない。夜中に部屋の窓を全開にしていても30度はありそうな蒸し暑さ。本当なら飲まずにはやっていられない。冷たい水もすぐにぬるま湯になる。


プノンペンの巨大ビジネス街と郊外のスラム

Issue 24 / 2007年11月21日 / 関連記事

早朝5時30分にもかかわらず、街は既に走り始めていた。プノンペンは巨大ビジネス街になりつつあるけれど、それと同時に観光産業も盛んだ。そのため、人気ゲストハウスはそれぞれ独自のツアーを組み、観光客の日程に早朝から合わせるのである。案の定、行きつけのCapitolゲストハウスの食堂は満席。


パイリンと地雷とポルポト

Issue 25 / 2007年11月21日 / 関連記事

昨日のトゥクトゥク運転手の話。「昔はバイクタクシーのドライバーだったけど、バイクを盗まれちゃったんだよ。だから雇われドライバーになって車を運転してたんだ。日本車だったよ。その時に働きながら語学学校へ通って英語勉強したんだ。大変だったけどね。そして働いてお金も貯まって、このトゥクトゥクを買った。1,000ドルだった。」


プノンペン郊外にて英語教師の話

Issue 26 / 2007年11月21日 / 関連記事

センソック高校での取材の合間に英語教師と話をした。彼はプノンペン市内の大学の博士課程で勉強中だそうだ。それと平行して高校で英語を教えている。「じゃあ、日本人とカンボジア人を1ヶ月だけそっくりそのまま入れ替えたりしたら面白いんじゃない?」


バスでプノンペンからバッタンバンの孤児院へ

Issue 27 / 2007年11月22日 / 関連記事

首都プノンペンから北西へバスで5~6時間走り、バッタンバン州に入った。プノンペンを出てから国道をひたすら真っ直ぐ走ってきた。何もない大穀倉地帯が目の 前に広がった。カンボジアの米どころだ。同時にこの地域はプノンペンに次ぐ大都市でもある。しかし、そこに都会の喧騒はなく、古き良き人々の暮らしらしき ものがあるような気がした。


開発とは何か、カンボジアにて考える-先進国のバックパッカーは何を思う?

Issue 28 / 2007年11月23日 / 関連記事

開発とは何か。この旅を通して考えてきた壮大なテーマ。先進国がこぞって途上国と呼ばれる国々を「開発」の名の下に変えていっている。お金を出して援助し、その国の最低限の生活水準を引き上げることはとても良いこと。だけど、たいていの場合、少なくとも僕が知っている限りにおいて、先進国の行う開発は物質的に 豊かな社会、便利な社会を作る方向に向かっているように感じる。


バスでプノンペンからバッタンバンの孤児院へ

Issue 29 / 2007年11月24日 / 関連記事

旅は突然始まり、ふいに終わりを迎える。数ヶ月前に思い立った今回の旅も、一晩考えた結果、そろそろ終わりにしようと思う。そして今、バンコク国際空港にいる。


中国国際航空でバンコクから北京へ

Issue 30 / 2007年11月25日 / 関連記事

旅の終わりには必ず何かが起こる。タイ国際空港で北京行きのキャンセル待ちを12時までしていて、最終的に乗ることができた。午前11時ごろから待っていたため、かれこれ半日以上空港にいたことになる。さすがに疲れた。ただ、北京から大阪行きの乗り継ぎ便の手配が実はできていない。


自分探しの旅とキャリア

Issue 31 / 2007年11月26日 / 関連記事

自分探しの旅。あまり好きな言葉ではありません。やりたいことは見えていて、ただ、そこへ歩みを進めるべきか否か。そこをはっきりさせたかったための旅でした。実際に僕の旅は「自分探しの旅」ではなかったと信じています。強いて言うなれば「自分との話し合い」が一つの大きなテーマだったのではないでしょうか。