青年海外協力隊としてマラウイに赴任して8か月目。今までのマラウイ生活の中で、一番過酷だと思われる場所に行きついた。それが、マラウイの「スモーキー・マウンテン」だ。フィリピンの「スモーキー・マウンテン」についてご存知の方も多いだろう[1]。フィリピンの「スモ―キー・マウンテン」は世界的にも有名だが、マラウイにもマラウイ版「スモ―キー・マウンテン」がある。フィリピンの火は自然発火だといわれるが、マラウイでは人が燃やしている。その様子は、今までマラウイに8か月住んだ中でも1、2を争うくらい壮絶な環境だった。
マラウイのゴミ山
首都リロングウェに住む隊員に連れられて、ゴミ山に行ってきた。その友人は、ゴミ山問題を改善しようとたびたび通っていた。
リロングウェのゴミというゴミが集まる場所、ゴミ山。マラウイではごみ焼却施設がないため、ゴミはある区画に集められ放置される。燃やされもせず、埋め立てられるわけでもない。
そもそも、資金不足なマラウイ政府に、リサイクルの回収なんてできるはずもない。その結果、リロングウェの郊外にゴミ山という場所ができる。数か月ごとにゴミを放置する場所を変えて、大量のゴミが放置されているのだ。
とうもろこしの芯やチキンの骨等のいわゆる生ゴミから、ビニール袋、タイヤの屑、ボロボロの布等。トイレの便座なんてものもある。全てのゴミが集まってきているようで、悪臭がすごい。ハエは口を開けたら入ってくるくらいの数がウヨウヨしていた。
ちなみに首都リロングウェはこのようなゴミ回収施設があるが、地方になると、そんなものすら存在しない。ごみ処分のルールはないので、各家庭の自由。たいていは、家にゴミを放置する場所があり、ある程度貯めて、どんなゴミでも燃やしてしまう。ダイオキシンとかは気にしていない。
人口がまだ少ないから町はそれほど臭くないが、年約3.07%(2014年、世銀)の勢いで人口が増加中のマラウイ。人口増加に伴い、将来ゴミ処理は大きな問題になってくるのが確実だ。
ゴミ山に集まる貧困者
そんなあまり近づきたくないような場所に、貧困者が毎日集まり、その日暮らしをしている。その日ゴミを集めていたのは、ざっと数えて100人以上。ほとんどが男性や男の子。子供も結構な割合でいた。中には子供を持ったお母さんも10数人ほど見受けられた(年齢は推定10-30歳代)。
彼らはゴミの中から廃品を回収して売れるものをかき集めたり、まだ食べられそうなものを集めて空腹を満たしたりしている。彼らが集めているのは、プラスチック製品(ビニール袋、ペットボトル、プラスチック部品など)。例えば、ビニール袋はコメ袋1袋に大量に集められて750MK(約107円)で売れると教えてくれた。
他に探しているのは食べ物。牛乳やポテトチップス、パン、ジャガイモなど。「まだ」食べられそうなものを探して、残り一滴になるまで食べて、飲んでいた。ゴミを漁った汚い手で、ゴミのご飯を食べる。
子供がコンドームを集めていたり(コンドームも売れるのか、それとも遊び道具になるのか)、ガラスが散乱している中を裸足で歩いていたり。来ている服もぼろぼろで、皮膚にごみが触れやすい。
こんな環境にいたら、病気にならないわけがない。それが、都会に住む最貧困層の過酷な現状だった。
「あなたも同じ人間だよね?」
今回のゴミ山問題で一番胸に刺さったのが、「あなた達日本人も私たちマラウイ人も同じ人間だよね?」と何度も言われたこと。
ゴミ拾いをしていた兄ちゃんたちに、「やってみなよ!」とゴミを掘り起こす棒を渡されて一緒にゴミ堀りしたり、「袋が売れるんだ!」って一緒に袋を探したり。途中までは一緒にやっていたが、あまりに悪臭がすごく、口を開けるとハエが入ってきそうで途中からは精神的に体が拒否し始め、本当に何もできなくなった。
「あなたも私も同じだよね?」って聞かれて、「もちろん!」って答えたけど、結局私は同じ人間にはなれなかった。
彼らもきっとお金があったら最悪の衛生状態の中、ゴミを漁るなんてしたくないはず。もし食べ物があったら、ゴミ交じりの牛乳なんて飲まないはず。同じ感覚を持った同じ人間だが、彼らがゴミ漁りをするのはそうしないと生きていけないから。子供が育てられないから。
首都リロングウェのゴミ問題なので政府はこの問題をきっと認知しているはずだが、解決には相当な努力が必要。今ゴミ漁りをしている彼らに職を与えたところで、他の貧困層がまたゴミ漁りを始めるだろう。ゴミ山をなくすために、焼却場を作るような予算はマラウイ政府にない。
問題の解決はまだまだ時間がかかる。その間に何人、このゴミ山で人が病気になって亡くなるのか。解決のために、何ができるのか。諦めたくはない。だが何ができるのだろう。
心に刺さる忘れられない経験となった。
[1] スモーキーマウンテン(Wikipedia):かつては海岸線に面した一漁村であったが、1954年に焼却されないゴミの投棄場になった。それ以来からマニラ市内(マニラ首都圏)で出たごみが大量に運び込まれ、ゴミの中から廃品回収を行い僅かな日銭を稼ぐ貧民(スカベンジャー)が住み着き、急速にスラム化した。