カンボジアで生活していると気づくことがある。プノンペンで買い物をすれば、たいてい同じ区画に同業者が店を構え、農村部へ行くと同じものを売っている人が隣あわせで50メートルくらい連なっている時もある。
これを日本の感覚に置き換えてみる。たとえば、コンビニが10件連なっていて、全店が「おーいお茶」を同額で売っているとしたらどうだろうか。それで商売が成り立つのが不思議だ。まさにこれと同じことがカンボジアでは日常的に存在し、訪れる者を驚かせる。
マンゴーの売り子が20軒も並び、大体皆同じところから仕入れ、価格も質もほぼ変わらないとしたら、どこに商業的なメリットがあるのか。たしかに、消費者にとって、そこへ行けば必ずマンゴーがあり、売り切れがほぼないという点で良いのかもしれない。しかし、売り手にとって、良いことはあまりないのではないか。
もし彼らがマンゴーを加工する技術を持ち、その加工品を売り出せば、他の売り子と「差別化」をはかり、価格の面でも競争力を持つ。これは農村開発の文脈でしばしば用いられる論理であろう。農村に何か産業をつくり、それを通して農村部の貧困状態を打破するというのである。
しかしながら、なぜカンボジアの人たちはこういう方策をとらず、未だに隣同士で仲良く同じものを売っているのだろうか。理由はいくつかありそうだ。たとえば以下の2つ。
- 一次産品の加工技術に乏しい: まず、一次産品を直接売るだけの商売を続けるよりは、技術を身につけ、収益性の高いものを作り・売るということは農村の経済発展に不可欠であろう。しかし、その技術を教える人がいないことが多い。
- 隣の人を真似るのが文化: カンボジアではどうやら伝統的に近所の人を真似る傾向にあるようだ。誰かが面白いことをやっていればそれを真似し、ビジネスでも同様だ。同僚の話によると、あながちどちらも間違ってはいないとのこと。加工技術を持つ人がいないため、皆が同じものを売っているのであり、加工技術を持つ人が一人いれば、皆それを学び、また皆で同じものを売り始める。とのことだった。ここまで、経済的発展の色眼鏡でカンボジアのこうした風土を見てきた。しかし、これが伝統・文化だとすれば、そこには経済発展などという安っぽいもの以上の価値があるのかもしれない。
事実、いつもお世話になっているモトドップのドライバー達も同じ場所に固まり、他人と「差別化」を図ろうなどとはこれっぽっちも考えていないようだ。それよりもむしろ、のんびりと昼寝、談笑、バドミントンをするなど、同業・近所とはライバルというより仲間であるようだ。
しかし、こうした伝統的な時間の流れの中に外部から経済発展の波が押し寄せようとしている今、伝統と経済発展のぶつかり合いは避けられそうにない。マンゴー売りのおばちゃん達はどこへ向かうのか。モトドップのドライバー達の生活はどう変わるのか。ここにもまた、経済発展 v.s. 伝統・スローライフといった対立が存在している。