情報が溢れる現代、指数関数的なデータの増加を象徴するように「あらゆるデータの90%は過去2年間に生成された」と言われています。例えば、同じ『Forrest Gump』というストーリーを鑑賞するのに、6.8MB(メガバイト)の電子書籍(240ページ)、272.5MBのオーディオブック(9時間9分)、2.3GB(ギガバイト)の映画(2時間22分、標準画質)と様々な形式があります。通信技術や記憶装置の発達が、何気なく撮影されたビデオから街中のウェブカメラの映像に至るまで、より大量のデータの蓄積を容易にしています。
それでは、私たちが受けとる「情報の量」は、データサイズに比例しているのでしょうか。オーディオブックはナレーションによって文に豊かな表現を加えることができますし、映画なら登場人物の服装も一目瞭然、言葉で説明して読者の想像に頼る必要がありません。その意味で、データ量が大きいだけ情報も詰まっていると考えるのは、ある程度正しいのかもしれません。
現代に生きる私たちは、溢れる情報を最大限に取り入れるため、自らの耳目をできる限りタブレットやスマートフォンに繋いでおくべきなのでしょうか。我々がこれらの電子機器を使うとき、主に視覚・聴覚を二次元で使うのに対して、現実世界ではより多くの感覚と次元が関係し、実は膨大なデータをそこに見出せるばかりか、それは紛れもない自分自身の経験となります。もちろん、電子機器には利便性があり、現実世界で簡単にはできない経験を補う手段を提供します。本や絵画が主要な情報保存の手段だった19世紀の思想家ショウペンハウエルは『思索』の中で「植物図鑑を見、銅版画の美しい風景をながめるために、広々とした自然から逃亡する者」を非難し、「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである」とも言って、より多種多様な情報媒体に囲まれている現代人にも示唆を与えています。アルキメデスは入浴の際に、ニュートンはリンゴの木を前にして、ひらめきを得たと言われます。
古典書籍などの形で蓄積された人類の叡智は、いつの時代にも重要であり続け、またAI技術がサイバー空間に溢れるデータを解析して生まれるインテリジェンスの影響も、もはや無視することはできません。同時に、二次情報と二次元世界に頼り過ぎることは我々を退歩させかねず、安全地帯の外の現実世界での体験が、叡智を生むのには不可欠なのではないか、と私は思います。あらゆる感覚を動員して情報の樹海を歩き、主体的に豊かな世界を作っていく一員となることを、2019年の私の抱負としたいと思います。
この記事はワシントンDC開発フォーラムに掲載されたものです。