キューバの歴史を、対米関係を中心に振り返ります。
1492年 コロンブスにより「発見」
キューバを含め、アメリカ大陸の歴史の大部分はコロンブスによる「発見」からスタートします。
1511年 スペインに征服される
中南米諸国の人種は、①先住民(褐色で背が低い)②スペインからの植民者(白人)③アフリカからの奴隷(黒人)、の3つの人種が混ざり合っているのが通常ですが、キューバでは先住民が絶滅(スペイン人による強制労働や、ヨーロッパからもたらされた病気に耐性をもっていなかったため)してしまい、スペイン系、アフリカ系と両者の混血だけが存在しています。
その後キューバは、先住民の悲劇とは別に、スペインと中南米の貿易の中継地点として発展を遂げました。
1868年 第一次独立戦争
1895年 第二次独立戦争
1898年 米西戦争
19世紀後半、周りの国々の独立の動きもありキューバでもスペインに対しての独立戦争が開始。第二次戦争を指揮したホセ・マルティはその後「独立の父」と呼ばれ、今も街の至る所に銅像が残っています。この戦争のさなかにアメリカがスペインに参戦、アメリカの勝利で戦争は集結しました。
革命の塔のふもとにはホセ・マルティの石像が
1902年 キューバ共和国独立
1903年 グアンタナモ湾を租借
400年に及んだスペインからの支配から解放され、独立を達成したキューバですが、現実にはアメリカによる支配に変わっただけでした。グアンタナモ州には現在にいたるまで米軍基地が置かれ、犯罪者が収容されています。
グアンタナモ米軍基地
1952年 バティスタによるクーデター
1940年に大統領に就任したバティスタという政治家がいました。その後亡命しフロリダでカジノを経営していたのですが、1948年に再度の大統領出馬したとき支持を得られなかったことからクーデターをおこし政権を奪取、独裁政治を開始してしまいました。これによりアメリカのキューバ支配は頂点に達し、バティスタ政権・アメリカ政府・アメリカ企業・アメリカのマフィア(カジノ)の4者が富を独占・アメリカ本土に流れる体制が確立されました。
1953年 フィデル・カストロが蜂起も失敗
このような反植民地状態の転換を目指し、弁護士フィデルが同士を率いて蜂起(モンカダ兵営襲撃)するも失敗。懲役15年を宣告され投獄されます。
襲撃した7月26日はキューバでは革命記念日として前後数日間合わせて祝日になります(実際にはこの時の襲撃は失敗で、本当に革命を達成した日は1月1日です)。
1955年 フィデル出獄、亡命
バティスタの大統領就任につきフィデルは恩赦を受け、メキシコへ亡命します。そしてメキシコの地で、チェ・ゲバラと運命の出会いを果たします。
フィデル(左)とゲバラ(右)
1956年 フィデルがキューバに上陸、ゲリラ戦を開始
総勢82人の軍団でグランマ号というヨットに乗ってキューバに上陸。上陸の際に激しい空爆を受け、18人しか上陸を果たせませんでしたが、シエラ・マエストラと呼ばれる山脈に逃げ込み、農民を仲間に引き込んでのゲリラ作戦を展開していきます。もちろんこの18人の中には、フィデル、弟ラウル、そしてチェ・ゲバラが含まれています。
1959年 革命
2年以上に渡るゲリラ戦の後、フィデルの軍隊は政府軍に勝利してハバナを制圧。
バティスタは亡命し、フィデル・カストロが首相に就任、革命政権が成立しました。
なお、このゲリラ戦争から革命成就に至る経緯は、2008年の映画「チェ 28歳の革命」に詳しいです。
当時の人々は熱狂してハバナに進軍するフィデルを迎えたと言います。
1959年 フィデル、アメリカ訪問
1960年 ソ連と外交関係樹立
1961年 ピッグス湾事件
1961年 社会主義を宣言
1962年 経済封鎖
アメリカのマフィアに牛耳られていた経済を変革するため、フィデルはアメリカ企業の資産没収・国有化を行いました。この動きを警戒したアメリカとは関係が日増しに悪化。フィデルはアメリカを訪問するも、時の大統領アイゼンハウアー大統領は「ゴルフのため」として面会せず。当初は共産主義者ではなかったとされるフィデルですが、この関係悪化を見てソ連との関係強化を決断します。1961年にはピッグス湾事件(アメリカCIAが亡命キューバ人部隊を率いてキューバに空爆を行った事件)が起こりますがキューバ軍はこれを撃退。直後、キューバは社会主義を宣言します。翌年、アメリカはキューバとの輸出入を全面禁止、経済封鎖を開始。ここから長年に渡るアメリカ・キューバの敵対関係が始まり、カストロ暗殺の試みは数百回に及んだと言われています。
1962年 キューバ危機
アメリカからの脅威に対抗するため、キューバはソ連の提案を受け、キューバに極秘裏に核ミサイルの設置を開始します。しかしアメリカがこれを発見、アメリカ・ソ連双方が核ミサイルを発射準備態勢に置く非常事態となります。最終的にはギリギリのところでミサイル撤去が決められたものの、この同意が米ソの間だけで一方的に決められた事にフィデルは大激怒したそうです(キューバからすれば、核ミサイルの設置場にされた挙げ句に自分の知らないところで勝手に話を進められたのですからたまったものではないでしょう…それでも、小国キューバがアメリカを相手に核戦争・第三次世界大戦も厭わない、というのはあまりにも過激に思えます)。
1965年 チェ・ゲバラがキューバを離れる
1967年 チェ・ゲバラ、ボリビアで戦死
上陸作戦からフィデルとともに戦い、革命樹立後は国立銀行総裁、工業大臣を努めてきましたが、他の国の革命闘争を助けるためキューバを離れます。アフリカ各地を周るも成功することはできず、1967年にボリビアの村で捕えられ射殺されました。現在遺骨はキューバに埋葬されています。
ちなみに、この当時の映画に「チェ 39歳別れの手紙」があります。またゲバラの青春時代、革命家になるに至る背景を描く映画として「モーターサイクル・ダイアリーズ」があります。
キューバを離れる際にゲバラがフィデルに送った手紙の結びの言葉「勝利の日まで、永遠に」
1966年 キューバ人調整法(Cuban Adjustment Act)発効
アメリカ国内に2年間(のちに1年間に変更)滞在したキューバ人にはアメリカ永住権を与えるとする法律。亡命を考えるキューバ人にとっては、アメリカ合衆国にたどり着きさえすればアメリカ政府から護られるという、他国の移民者にはない「特権」であり、アメリカがキューバ人の亡命を助長するために設定した法律といえます。年間万単位のキューバ人がこの庇護を求めてアメリカに亡命しています。
なお、2014年12月のオバマ大統領の発表以来、雪解けと相まってこの法律が無効となる噂がながれ、「特権」がなくなることを懸念したキューバ人の間で「亡命ラッシュ」がおこり、海上で発見・キューバに送還される件数が急増しています。
車を改造してモーターボートにする強者亡命者も!
1976年 クバーナ航空爆破事件
亡命キューバ人でCIA工作員のルイス・ポサーダ・カリレスが、クバーナ航空の飛行機に爆弾を仕掛けて爆破し、乗客・乗務員78人全員が死亡した事件です。中米カリブ選手権で金メダルを獲得したフェンシングのキューバ代表24人も乗っていました。ちなみにルイス・ポサーダはその後もたびたび爆破事件やフィデル殺害計画に関わっているもののたびたび無罪判決や恩赦を受け、今も家族とフロリダで生活しています。
1977年 アメリカと利益代表部設置で合意
“利益代表部”とは、大使館の代わりの役割を果たす事務所のことです(国交がないため大使館はない)。現在この利益代表部にはアメリカ人50人以上、キューバ人100人以上が働いており、大使館設置の際にはこの事務所がそのまま大使館に変わります。
利益代表部。目の前に旗を建てる棒が100本以上建っており、革命記念日など特別な日にはキューバの国旗で埋め尽くされますが….
テロ事件のあった日などには黒旗で覆い尽くされます。
1996年 ヘルムズ=バートン法成立
トリチェリ法(キューバ民主主義法)をより強化する内容。どちらも国連総会などで国際的に非難を浴びている法律です。このようにアメリカのキューバ制裁は「法律」で定められてしまっているので、法律の改正には議会の承認を伴い、大統領権限を持ってしても簡単には変える事ができません。
2000年 アメリカからの食料の輸入開始
“人道的観点から”という理由で食料と医薬品はアメリカからキューバへの販売が解禁。現在、キューバの食料輸入先一位がアメリカで、金額はなんと年間数百億円単位。経済封鎖、反米、といいながら…キューバ七不思議の一つ。
2006年 フィデル手術
2008年 フィデル引退を発表、弟ラウルが総帥に
2006年に入院時に一時的に権限を委譲していましたが、2008年、フィデルは正式に国家評議会議長の座を弟のラウルに引き継ぎました。この時フィデルは82歳、ラウルは77歳です。
ラウルは政権を取ると規制緩和を打ち出し、携帯電話所持やホテル宿泊、自営業の一部許可など経済の脱国営化を進めます。近年では、商業面で家や自動車の売買解禁、政治面で出国ビザの取りやめ、スポーツ選手の海外移籍の解禁など。実際は闇市場での売り買いが国民の間で常識になっていたものを追認しているだけだったり、解禁したはいいものの値段が高すぎて誰も買えなかったりなど、茶番が多いのですが…。
兄フィデル(左)、弟ラウル(右)
2009年 バラク・オバマが米大統領に当選
ブッシュ政権時代に強化された対キューバ制裁を緩和。アメリカに100万人以上いると言われるキューバ系アメリカ人(亡命キューバ人とその子孫)のキューバ訪問や送金、電話・郵便の使用などに関して制限を緩和しました。
2013年 バラク・オバマが米大統領に再選
この「再選」には重要な意味があります。キューバ系アメリカ人(=反カストロ政権)の多く住むフロリダ州は大票田であるため、歴代の大統領はフロリダの票を確保するためにはキューバへの制裁を緩和する政策を(仮に取りたいと思っていたとしても)取ることが出来ませんでした。第二期であればもう選挙の心配をする必要はない(アメリカ大統領は任期4年で再選1回まで)ため、思い切った政策を実行することができます。事実、1年後にそれが実証されました。
2014年 オバマ・ラウル両首脳、国交正常化を発表
2014年12月17日は、歴史的な一日となりました。水面下では、18ヶ月におよぶ交渉、ローマ法王やカナダ政府による仲介があったようです。
2015年 両首脳が会談
2015年 テロ支援国家指定解除(見込み)
パナマで行われた第七回米州サミットで、59年ぶりに両国首脳による会談が行われ、その3日後、テロ支援国家指定の解除が正式に承認されました。
会談後、握手する両首脳
20XX年
これから両国は大使館を設置しての国交の正常化をめざしつつ、その中でアメリカはキューバの民主化、キューバはアメリカの経済封鎖の解除という、お互いが譲りたくない点を目指して、交渉が進んでいく事になります。今後の展開に、目が離せません。