カンボジアレポート 6-ポル・ポト虐殺の歴史トゥール・スレン
3月24日 PhnomPenh (Cambodia)
小鳥の囀り。サンダルで寝そべるおじさん。タンクトップの白人観光客。そこにはゆったりと平和に流れる時間があった。門を抜けるとあの当時のまま残され た古い建物が見えてきた。もらったパンフレットには「genocide museum TOUL SLENG」とあった。
トゥールスレンは元々、高校だった。貧しいカンボジアの中ではおそらくかなり良い部類に入るだろう立派な3階建ての校舎だ。そこではおそらく希望を胸に、たくさんの生徒達が机を並べていたのだろう。
しかし1975年にポル・ポト政権(クメール・ルージュ)が成立すると、状況は一変し、そこはS(Security Office)-21として使われた。ポル・ポト政権における最高秘密組織であった。4棟あった校舎は誰も逃げられないように全て鉄条網で覆われ、窓には 鉄格子、教室はそれぞれ0.8×2mと8×6mの牢獄に区切られ、周辺の民家は拷問、尋問のために使われた。また、女性達は尋問官によってしばしばレイプの対象となった。
そして、施設の警備にあたっていた者の中にはなんと10歳から15歳の少年少女の姿があった。彼らは邪悪に教育され、自分よりもはるかに年上の囚人たち をひどく残酷な目に合わせた。医療事務の担当者もほとんどが子供であり、怪我や病気にかかった囚人たちは一日3回の治療を受けることができたが、病院のよ うなサービスを受けることは当然不可能だった。
被害者(囚人)たちの生い立ちは様々で、周辺諸国やアメリカ、イギリスの人々までいた。それでも最も多かったのはカンボジア人だった。職業は知識人が中 心だ。これがポル・ポト政権の大きな特徴だ。つまり、教育を受け、高度な知識を得た者は反逆を企む可能性があり、逆に子供は従順に教育すればそのようにな るとの思想から、知識人を徹底的に虐殺していったのだ。よって、ジャーナリストや外国語の出来る者は真っ先に殺されていくこととなった。
収容される人々はまず写真を撮られ、調書を細かく取られ、それらは保管された。その後下着姿にされ、収容された。政治犯のように重罪の者は個室へ、その他の者は大部屋に連れて行かれ、足かせをはめられ、拷問や虐待は毎日行われ、一日4回も囚人の検査が行われた。
この時代に、人口900万人の内300万人が殺されたと言われている。ここはその悲しい記憶を忘れないように、人々が博物館として残している場所なのだ。