0. はじめに
カンボジアもついに社会保護(Social Protection)制度の整備を開始した。これまで様々な援助機関や政府機関が行ってきた社会保護プロジェクトを国家社会保護政策ストラテジー(National Social Protection Strategy)として総括する計画だ。社会保護政策の貧困削減ツールとしての有用性は多くの途上国で広く認知され、その実力を発揮してきている。南米 やアフリカ諸国での成功例は目を見張るものがあり、その貧困削減ツールとしての力は既に折り紙つきのものとなっているのが現状だ。その社会保護政策の枠組 み作りに今、カンボジアは取り掛かっているのである。
Social Protectionという分野は、日本の開発援助の枠組みでまだ認知されていない(*)。たしかに、社会保障(Social Security)という言葉の下、年金制度・医療福祉・障害者福祉・孤児支援等はしばしば実施されている。しかし、これらは社会保護(Social Protection)のほんの一部であり、そうした全ての福祉制度を「貧困削減」や「様々なリスク軽減」のツールとして、包括的に捉え、さらに大きな枠 組みを作ることは日本の援助の中で行われてこなかった。それゆえ、この分野で日本語の文献を探してもほぼ見つけることができないし、Social Protection とSocial Securityの区別もほぼされていない。
事実、今回こうした一連の議論に多くの国連機関や NGOがかかわっていたにも拘らず、日本の援助機関の参加は皆無だった。しかしながら、これはカンボジアの社会保護・社会保障政策の土台となっていくもの であり、これ以上重要な社会保護政策に関する議論はこの国に存在し得ないといえる。これを土台に、全ての社会保護政策が施行されていくようになるのであ る。いわば、「社会保護政策の憲法」のようなものだ。
そのため、私も日本の援助機関のプレゼンスをここに示すのは非常に重要なことだと 思っていた。そして実際に、この議論に彼らを参加させようと、カンボジア政府を通して招待状を送ったりもした。しかし、結果としてその思いは残念ながら届 かなかった。これによって、カンボジアの社会保護政策において、日本は一歩出遅れてしまったと個人的には感じている。
ところで、この「途上国」の社会保護政策(Social Protection)という分野は、私の専門である。それもあり、今回の枠組み作りの場に国際労働機関(ILO)から参加し、以前ここでも紹介したよう に、Concept Paperの執筆も行った。そこで行った提案のいくつかはどうやら採用されるようでもある。このキャリアの早い時期に、カンボジアの社会保護政策の枠組み 作りに参加できたことはとてもよかった。
ここでは、カンボジアのこの枠組み作りを知っている唯一の日本人(当事者)として、その動向と結果をレポートしたい。以 降、日本の援助機関からもこの枠組み作りに関してレポート等が出てくることとなるだろう。しかし、それら全ては第三者を介して得た情報となる。一方、私は ここでそのプロセス等を現場から生の声で届けたいと思うし、その意義はあるのではないだろうか。また、メールやコメントにて連絡を頂ければ更なる説明や情 報も提供できるかと思うので、是非この場を借りてこの分野に関心のある方との交流も図りたいと思う。是非ご連絡していただければと思う。
* ここでいう社会保障とは日本で行われている社会保障制度とは多少ことなるので、区別するために「社会保護」と呼ぶこととする。
1. 背景
2008年の世界同時経済危機、そして食糧価格の高騰。この二つの歴史上まれに見る不測の事態に、カンボジア国民およびその経済は大きな打撃を受けた。中 でも貧困層への影響は計り知れないものがあり、こうした事態をいかに回避し、その影響力を軽減させることができるのか、といった議論がカンボジア政府内に 起こった。そして、2009年半ば、カンボジア政府はこれを受け、国家社会保護政策ストラテジー(National Social Protection Strategy: NSPS)の構想を練ることを決定した。この構想は、これまで数多くのドナーや政府機関が実 施してきた社会保護政策(医療、保健、教育、障害者・高齢者福祉などなど)を包括し、より効果的な社会福祉制度を構築しようとするものである。つまり、こ れはカンボジアにおける社会保護(社会保障)政策の土台となるものであり、今後行われる全ての社会政策はこの国家社会保護政策ストラテジーの下に実施され ることが予定されている。この大きな枠組みの主目的は、以下に示すように大きく2つある。
1. 不測の事態(*)の際に貧困層がさらに貧しくなることを防ぐ
2. 不測の事態の際に現在貧困層でない家庭が貧困の罠に捕われるのを防ぐ
また、他途上国における貧困層向けの社会保護政策と同じく、この枠組みの基本理念は3つの柱から成り立っている。
1. 保護(Protection): 経済および家族構成などが、特定のリスク(不測の事態)に対して脆弱な場合それらの家庭(例えば、老人や病気がちの大人の稼ぎに頼っている頼っている家 庭、女性が長の家庭、孤児など)を優先的に保護する必要がある。とりわけ、貧困層は、経済的にそうした不測の事態に対処する能力が低く、脆弱であると判断 されることが多い。貧困層をターゲットとした資金・物資提供(Provision)型のプロジェクトや(災害時などの)緊急援助はこの「保護」の概念の下 で行われる具体例である。しばしば、それらは社会福祉(Social Assistance)と呼ばれる。
2. 予防(Prevention): 「保護」が事後対策に近い一方、「予防」は前もって救済制度を設けておき、各家庭が危機に瀕した際に救済措置をうけられるようにすることを想定してい る。有名なのは、セーフティネット(Social Safety Nets)であり、貧困の罠に落ちそうになった個人・家庭を張り巡らした救済の網で受け止めてあげることを目指している。また、保険(Social Insurance)もこの予防策として用いられることが多い。
3. 向上(Promotion): 「向上」は、単に貧困から脱出させることを目的とするのではなく、次なる危機の際にも貧困に陥るリスクを恐れずにすむほどまで、個人・家庭の対処能力を 向上させることを理念としている。たとえば、マイクロファイナンス(Microfinance)と脆弱な層を結び付けてあげることで、彼ら自身で新たなビ ジネスを開始するなど、家計を強化・向上させることなどが考えられる。
2010年2月3日、4日、最後の「カンボジ ア国家社会保障政策枠組みのための大会」が実施された。これはILO、UNICEFの主導の下、カンボジア政府(Council for Agriculture and Rural Development: CARD)が実施したもので、「社会保護政策がいかに教育の向上と児童労働撤廃に寄与することができるか」に焦点を当てたものだった(このコンセプトノー トのドラフトは私が担当した)。結果として、これは一定の成果をあげ、10人の大臣兼副首相を招く壮大なものとなった。
現在、CARDは 国家社会保障政策の枠組みの作成中であり、3月中に最初のドラフトを提出することとなっている。ILOは、教育、児童労働の観点からこのドラフト作成に技 術協力する予定である。また、この枠組みが完成した直後には、最初のプロジェクトが実施予定であり、それは世界銀行の援助による「条件付現金給付 (CCT)」である。
* 「不測の事態」とは、たとえば、急激な生活用品のインフレ、自然災害、病気や怪我(伝染病や重病に限らず、稼ぎ手の病気による1日2日の欠勤は貧困家計にとって深刻な影響を与える)などが考えられる。
2. ターゲティング: ID Poor プログラム
国家社会保護政策枠組みの下で、これから多くの社会政策が実施されることになるが、その際に「いかに貧困層および(リスク対処能力の低い)脆弱な層」を見 つけ、それらの個人・家庭に効率的に支援できるかがカギとなってくる。そこで、この枠組みの下では、計画省と内務省が実施するID Poor (National Identification of Poor Households programme)というターゲティングプログラムを用いることで合意している。
ID Poor プログラムはドイツの援助機関GTZの協力の下で2007年から開始され、18県、7347の村を既に網羅しており、今後2年おきにこれらのデータは更新 されていく予定である。技術的には、プロキシミーンズテスト(Proxy Means Test)という手法を用い、経済指標に基づく家計データから、家族ごとに3つのグループに分ける(最貧困層:貧困層:貧困層以外)。さらに、このアン ケート調査は、経済指標以外(教育水準および家族構成など)のデータも取っており、それらは必要に応じてVillage Representative Group (VRG)という特設委員会にかけられ、考慮されることとなっている。 こうして、ID Poorは受益者を決定するために用いられる予定なのである。
3. 予定される社会保護プロジェクト
政治的な話をすると、カンボジア国家社会保障政策枠組みが開始できたのは、世界銀行の資金拠出があったからのようだ。世銀は彼らの真骨頂である条件付現金 給付(CCT)プロジェクトを母子保健(Maternal Health and Malnourished infants)向けに実施しようとした。これに乗じて、大元の枠組みを作ろうとしたのが、今回の構想の始まりだったといえよう。したがって、このCCT プロジェクトが今回の枠組みの下で行われる最初の一大プロジェクトとなる。また、私の見方では、このCCTプロジェクトは、それまであっ たHealth Equity Funds (HEFs) と政府の貧困層向け奨学金プロジェクト(世銀協力)の延長にあるようである。事実、ここでも活用されるターゲティングメカニズム(ID Poor)は、HEFs のデータベースと仕組みを使ったものである。つまり、これまであった資源を有効活用すること(Resource Mobilisation)を狙って必要コストを最小限に抑えたCCTプロジェクトであるといえる。これは、世界銀行のレポート”Safety Nets in Cambodia”を見てもらえば、明らかである。そこからは、HEFs もScholarship for the poor プログラムもしっかり想定されていることが読み取れる。
4. おわりに
ここまで、カンボジアにおける国家社会保障政策枠組み作りについて、大まかな概要を述べてきた。最初に記載した通り、ここで私がレポートした内容が、今現 在、日本語で書かれている最新の情報であることはたしかなはずだ。これも前述の通り、カンボジアのカンボジア国家社会保障政策枠組みを間近で見ていた日本 人は私以外にはいなかったし、日本の主要援助機関も興味を示さなかった。しかし、カンボジアでカンボジア社会保護政策を実施するときに、この枠組みに関す る理解はこれから不可欠となってくるし、その際に、この分野に精通した専門家は不可欠となってくるはずである。しかしながら、今回の議論 の中で気づいたことでもあるが、この分野の専門家はまだまだ日本および世界にも、少ないということだ。国連機関が主導しようと多くの人材を送り込んできて はいたが、Social Protectionの専門家はほぼ皆無で、その多くは教育・保健等の専門家だった。そのため、議論があちこちへ飛び、まとまりがなかった感じは否めな い(ちなみに、その中で唯一、Social Protectionの専門家を送ることができたのがILOと世界銀行だった)。
前述の通り、「途上国」の社会保護(Social Protection)政策を専門とする人材は相当限られているようだ。ましてや日本人に限ると、ほぼいないに等しいのではないだろうか(論文等の出版物 はほぼない)。たしかに、障害者支援・社会保険の専門家はいるが、こうした大枠作りに参加でき、他国の最新の事例を包括している専門家はあまりいないので はないだろうか。実際に今回のカンボジアにおけるカンボジア国家社会保障政策枠組み作りに参加した日本人は、私一人だった訳であるし、この分野(とりわけ カンボジア)での日本人で第一人者となる気持ちは、これからも持ち続けたいと思うし、その価値もあると感じた。
今回はこうした私の専門の一旦を垣間見ていただくとともに、「カンボジアにはしっかりとした社会保障制度がない」と煽る人々へのささやかな情報提供を行いたく、簡単なレポートとしてまとめた。最後にはなりましたが、一般、研究者、実務家の方からのメールやコメントもお待ちしております。情報提供、追加の説明等も可能な範囲で応じたいと思います。
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