今回はこのシリーズの本題となる倫理的観点から農業について考えてみる。倫理というと実社会と関係のないことのように思うが、人びとが行動を起こす時その裏にあるのはそれぞれの持つ価値観だ。その価値観、倫理は現実の農業問題にどう関係しているのか。
ここまで、経済的、社会的に食料と農業を見てきた。食料貿易は食料安全保障の役に立つかもしれないが、農業分野や農業を生業としている人びとに負のインパクトを与えるかもしれない。実際のインパクトは国や地域の文脈やタイムフレームによって異なるが、いずれにしても食料貿易について考える際には食料の観点で見るか農業の観点で見るかでその役割、もたらしうる経済的・社会的便益は大きく変わってくる。食料安全保障の改善策が農業とは限らず、農業の発展が必ずしも直接的に食料安全保障の達成に繋がるわけではないのだ。
更に、ここからがようやく本題となるが、農業について言えば社会経済的観点とはまた別の視点も存在している。農業は生活そのものであり、また資産、伝統、文化、先祖からの遺産だと考える人びとがいる。自分たちが食す食料を自分たちで生産することは、ただ単に食料を買って必要な栄養を摂取すること以上の意味がある。それは人びとがどのように生きるか、に関係する問題だ。国際的NGOであるLa Via Campesinaに代表されるこのように考える人びとは、“食料主権(Food Sovereignty) ”、“アグロエコロジー(Agroecology)”という考え方を提唱している。これは「人びとやそれぞれの国家自身が自分たちの食べ物や、環境、文化を含む食料生産システムの決定権を持つべきだ」、という考え方だ。“食料主権”と言いつつ、その中心は財である食料ではなく、生産活動である農業に据えられている点が、食料安全保障とは大きくことなる点と言える。当然このような主張をする人びとは、一国の農業構造に影響を与える自由貿易に反対の立場をとっているが、それは上に書いたような生き方にかかる問題であり、単純にコストベネフィットの経済的便益のみに依拠した反対ではない。
このような複雑な対立を理解するためのヒントとして、興味深いアプローチを紹介したい。「持続的集約化の倫理(The Ethics of Sustainable Intensification)」、と題された報告書で、10年以上前にFAOが出版したものだ。
ここで、もし誰もが食料を入手出来ることが大事であり、食料安全保障を達成するためにはどんな手段も考慮すべきだと思うのであれば、その考え方は功利的な倫理観に根付いている(功利主義的アプローチ)。つまり、ある行動はトータルの便益がプラスであれば(最大多数の最大幸福)、倫理的に正当化出来るという考え方だ。この考え方はものごとの「結果」を判断基準としている。他方で、食料安全保障の改善は図られるべきだが、人びとは自分たちの生活を自ら選ぶ権利がありそれは尊重されるべきだ、と考えるのならば、それは権利と義務に根付いた倫理だと言える(権利アプローチ)。この場合、ある行動は他者が備えている自由に生きる権利を侵害しない限りにおいて正当化が可能となり、「プロセス」が重視されている。
この考えに沿って改めて食料貿易を考えてみると、食料安全保障は功利主義的アプローチで、食料主権は権利アプローチで食料貿易を捉えている。どちらが優れているというものではなく、どのような倫理に基づくかによって優先事項、場合によっては現状の認識は変わってくることを示している。食料の問題が常に論争を呼ぶのは、食料が単なる財ではなく、農業が単なる産業でなく、人びとの生活そのものという認識があるために、経済的・社会的な最適化の話に留まらず、このように異なった倫理観で見られていることがその要因のひとつだということが見えてくる。
最終回となる次回はこの二つのアプローチを使って、開発事業の中でどのように取り組んでいけばいいのか考えていきたい。
- 農業開発の倫理とは-食料貿易論争を通じて見える2つの視点(1月26日掲載)
- 貿易は脅威でも万能薬でもない(1月27日掲載)
- 食料-取引可能な財(1月28日掲載)
- 農業-途上国の多くの人びとのなりわい(1月29日掲載)
- 農業を巡る倫理的観点-経済・社会的観点とは異なる視点(1月30日掲載)
- 開発でも2つの視点を(1月31日掲載)